淀川によって作られた大阪平野に広がる百万都市。古くから商都として栄えた。
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大阪の陣(おおさかのじん・1614,1615)
豊臣家滅亡を図る徳川家康率いる幕府軍と、大阪城に立てこもる戦国時代の亡霊たちとの対決。
慶長十九年の冬の陣と翌元和元年の夏の陣に分かれる戦国時代最後の大戦。
天下の富を総動員した世界一の城塞の攻略に家康が動員した兵数は百万とも言われ、大阪平野は徳川方の将兵で満ち満ちたという。
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林豪(りんごう・生没年不詳)
実在したのかどうかも怪しい一向宗連枝。
司馬遼太郎の小説『戦雲の夢』から無許可でレンタルしてきた人物。
僧体でありながら当時の大名貴族らと広く深い親交をもっていたとされる。
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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか・1575〜1615)
四国統一の英雄、元親の四男。宮内少輔。
長男信親の死後、元親に溺愛され血なまぐさい相続争いの後、家督を継ぐ。
関ヶ原では家康につこうとするも使者が西軍に足止めされ、不本意ながら西軍として参加。
合戦当日も裏切りの意図ありありの総大将毛利輝元の真下に陣を置かれて手をこまねくばかりで、西軍主力の敗報を聞くなり撤退。
さらに兄の三男親忠が側近を通じ家康に長宗我部家の存続を訴えていると知って彼を謀殺しようとする家老の久武親直を止められず、家康の不興を買う。
謝罪もむなしく土佐二十二万石は没収され、盛親は京で浪人生活の憂き目を見ることとなった。
十四年の蟄居の後、盛親は大阪城に入城、再興の夢を見るも敗戦。
大阪方で数少ない有能な武将であったためか落ち延びた後も追討の手は厳しく、公式記録では捕縛後、引き回しのうえ六条河原で斬首となっている。
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真田幸村(さなだゆきむら・1567〜1615)
戦国の家康キラーとして名高い真田昌幸の三男。左衛門佐。
関ヶ原においては父とともに西軍につき、敗戦後は紀州九度山に流される。
大阪冬の陣に際しては最前線となる平野口の守りを担当、後世名高い真田丸を築き、押し寄せる東軍を幾度も退けた。
夏の陣においては裸城同然の大阪城を捨て、家康の首を狙うべく一か八かの特攻作戦を試みる。
真一文字に突き進む真田軍はたびたび家康の本陣を突き崩し、家康も絶望のあまり切腹を考えるほどだったという。
この突入後、安井天神で休息中のところを越前兵に討たれている。
江戸時代以降作られた『真田十勇士』などに喧伝されるように、死後その敢闘は高い評価をうけ、東軍側の記録にさえも悪く言う文章は殆ど無いという。
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新宮行友(しんぐうゆきとも・?〜1615?)
元は紀州の神官とも、海賊とも言う大阪方の武将。
攻撃あるのみの猪突猛進型。
大阪の陣の前哨戦だった堺焼き討ちで戦功を上げるが、それ以外特に目立った活躍も無く歴史の中に埋もれてしまった。行朝とも。
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あの戦:八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい・1615)
大阪夏の陣での激戦の一つ。
盛親率いる長宗我部軍は友軍の木村重成軍とともに藤堂・井伊を中心とする徳川の大軍相手に奮闘したが伊達らの援軍の前に壊滅的打撃を受けた。
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豊臣秀頼(とよとみひでより・1593〜1615)
右大臣。秀吉の次男。
淀殿との間にできたこの秀頼を溺愛した秀吉は1595年、甥であった後継者秀次に無理矢理切腹を命じ、世子に据える。
しかし関ヶ原ののち天下が家康のものになると摂津・河内・和泉三カ国を有するだけの一大名に転落させられてしまう。
その後家康の孫千姫との政略結婚による延命を図るが、自らの死後諸大名が再び豊臣の下に走るのを恐れた家康はあくまでも豊臣氏抹殺を目指し、大阪城を二度にわたって包囲。
最期は母親らとともに自害したと言われている。
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大野治長(おおのはるなが・?〜1615)
修理亮。大阪の陣における事実上のリーダー。
夏の陣において敗色濃厚となると家康の孫・千姫を切り札に秀頼助命を図るが果たせず、ともに自害した。
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島津家久(しまづいえひさ・1578〜1638)
関ヶ原の正面突破退却で名高い義弘の三男。関ヶ原後の敗戦処理に走り回り、仲介した井伊直正らの尽力もあって何とか本領安堵をとりつけ、後を継いだ。
大阪の陣においては何を思ったかいきなり海に出、台風にあったという理由で戦そのものには参加しなかった。
真実は定かではないが当時の京大阪の庶民はこれを豊臣への好意ととり、陣後も大阪方の武将をかくまいまくっているという噂が絶えなかった。
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明石全登(あかしたけのり・生没年不詳)
『てるずみ』とも。元は関ヶ原で改易され八丈島に流されたた宇喜多秀家(うきたひでいえ)の重臣。
大阪夏の陣に際して四千の兵を率いて入城。
旧主秀家の召還と信教の自由を求めて真田幸村らとともに奮戦するが敗れ去り、キリシタンであったために自害せず失踪する。
その武勇を恐れた家康は全国的に「明石狩り」を行うが、その行方は全く知れなかった。
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福島正則(ふくしままさのり・1561〜1624)
幼名市松。
秀吉子飼いの武将で、有名な賎ヶ岳七本槍の筆頭。
関ヶ原の戦いにおいては秀頼のために家康に味方すべしと主張し、豊臣恩顧の諸将を東軍に引き込む功をあげ、広島四十九万石を授かる。
しかし徳川治世下になっても豊臣大好き武将の筆頭であることを公言してはばからなかったため幕府から睨まれ、大阪の陣でも裏切りを警戒されて出番は無かった。
1619年、広島城石垣の無断修理をとがめられて改易。数年後静かに世を去っている。
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京都所司代(きょうとしょしだい・組織名)
秀吉政権・江戸幕府下でおかれた京都治安組織。この頃の長は板倉勝重。
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藤堂高虎(とうどうたかとら・1556〜1630)
史実に残るだけで七人の主人に仕えた。
関ヶ原の合戦直前に家康に接近。
戦いのターニングポイントとなった小大名の裏切りを誘った裏工作の功を買われて伊予今治二十二万石の大名となった。
時代の流れを読むことに長けた家風は代々受け継がれたのだろうか、藤堂家は幕末に徳川をあっさり裏切り明治政府側に加担している。
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桑名一孝(くわなかずたか)
盛親の幼なじみ。同じ乳母を持つ傅人子として幼少の頃より主従を越えた親友ともよべる付き合いをしていた。
関ヶ原以後、一族を養うためやむを得ずいくつもの仕官のオファーの中から藤堂家を選び、仕官。
大坂の陣で運命の対峙をするに至る。
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『この命と右手さえあれば………』(このいのちとみぎてさえあれば)
長宗我部盛親が罪人として門前にさらされた際、通りがかった島津家久の「武士らしく自害せんのか?」との問いに対する答え。
「自害はせん。この命と右手さえあれば、家康や秀忠をこの姿にすることができるのだからな」
このセリフが幕府に届いたのかどうかはわからないが結局盛親は助命嘆願も空しく引き回しの上獄門にさらされることとなる。
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