半独立都市アーケインの地下にある湖。そこから伸びた木の根が絡み合い形を成した巨大な樹。岩盤を貫き、地上にまで姿を現していたそれは、巨大な光の柱の出現と共に突如崩壊を始めた。
うっすらと光を放つその樹──のちに自警団の間では『スノウ樹』と呼ばれる──は本物の植物ではない。これものちに『古の民』の先代民長であるマリアルイサによって語られたことであるが、この植物(らしきもの)は『混沌の種』と呼ばれるエネルギーが変異・結晶化したものであるらしい。『混沌』と『ウロボロス』、そして『スノウ』の関係は不明のままだが。
『混沌』エネルギーの結晶化が解かれたため『スノウ樹』は末端から消失し、その結果アーケイン中央部の岩盤(つまり地底空間の天井)も崩壊、大量のガレキを地底にばらまくこととなった。
シュリ:「ったく、冗談じゃないっての!」
光を放ち、消えていく『スノウ樹』は、夜の闇を押しやり幻想的な姿を見る者の目に焼き付けた。
落下してくる巨大な岩の塊をかわしながら、シュリはこの光景を目にしていた。まるで天国と地獄だ。
実際には短い時間だったのだろう。崩壊はやがて収まり……天井に、ぽっかりと大きな丸い穴を開けた。中央広場とほぼ等しい面積の穴から見える夜空には、曇っているのか星の瞬きはない。
砂埃で白くなった髪を払い、シュリは立ち上がった。すぐ傍に、ユリアとレイチェルの姿。少し離れた場所にマリアルイサとエイドシックの姿もあった。
地底湖の方に目をやる。
地盤の隆起と落下物のせいか、水面から巨大な岩が顔を見せている。レイチェルの座っていた椅子は岩に押しつぶされ原型をとどめていなかった。
レイチェル:「みんな、無事か?」
ユリア:「ユリアは平気れす」
マリアルイサ:「ちょっと腰を打ったけど、生きてはいる」
エイドシック:「………………」
フウゲツとヴァイスの姿だけ、なかった。
あの高さから落ちたのだろうか。だとしたら、いくら下が水とはいえ無事では……。
レイチェル:「いた」
レイチェルの視線の先。湖の水辺に、3つの人影があった。
レイチェルがシュリを見た。シュリはユリアを見る。3人とも、顔にかすかな笑みが浮かんでいる。
そんな3人の視界の端を、ふわりと白いものがよぎった。
見上げると、ふわふわと動く無数の白が夜空を彩っている。
雪だった。
初雪。冬の妖精の贈り物。
ゆっくりと落ちてくる雪を一粒、手のひらで受け止める。
冷たく白い小さなかけらは……溶けて、消えた。
世界を白く、染め上げていく。
その冷たい抱擁を、フウゲツは全身で受け止めていた。
腕の中にスノウがいる。
目を閉じたスノウ。
微笑んでくれたスノウ。
それなのに……
彼女の瞳は、もう二度と開かない。
ふと、あの晩の記憶が瞼の裏をよぎった。
収穫祭の夜。光の雪が降る夜。
暖かい雪を、ドレス越しに感じた彼女のぬくもりと弾力を思い出した。
そっと、頬に触れる。
その肌は、雪のように白かった。
その肌は……雪のように冷たかった。
・
『魔王の森』から見た街並みは、そんなかんじだった。
まだ夜明け間もない朝の光を浴びて、きらきらと輝いている。
その光景は、ひどく現実感に欠けていた。
「ヴァイス、いかなくてよかったの?」
「いいんだ。どうせ、できることないし」
夜明けを待ってすぐ、『門』が開かれることになった。
崩壊した地底湖にはレイチェルとマリアルイサ、そしてエイドシックが、自警団の砦にはシュリたちがいるはずだ。
混乱を防ぐため、必要最小限の人間にしか『門』が開くことは伝えられていない。
そしてヴァイスは、森の入り口にいた。傍らには、ロゼの姿。
「もうすぐ……消えるしね」
弱い笑みを浮かべ、ヴァイスは幻の少女の方を見た。
すでに肉体という器を持たない存在。
そしてそれは……ヴァイスも同じだった。
ヴァイスは知ったのだ──自分が、すでに死んでいたことを。
月影の民と地の民の抗争の中で深手を負ったヴァイスは両親によってアーケインに運ばれ……そこで息を引き取った。
そのとき看取ってくれたのが、きっとスノウだったのだろう。
彼女が自分のことを覚えていてくれたから……ヴァイスは、”ここ”にいることができたのだ。
そのスノウは……もういない。
今は『結界』が過剰動作しているのでまだ存在を保てているが、『門』が開き、『結界』が正常になったとき──そのとき、ヴァイスはこの世界との接点を失う。
人から忘れられたとき……そのときが、消えるべきときなのだろう。
ロゼにはまだ、覚えていてくれる人がいる。ノエルも、そうだ。
自分には……いない。そういうことなのだ。
「……いいの?」
「いいんだ」
「お別れとか……しないくていいの?」
「うん──できることなら、みんなの記憶からも消えたいくらいだから」
「ヴァイス……」
天を、仰ぐ。
「ああ……」
聞こえるはずもない、『門』が開く音がする。
この街は、正常な姿に戻るのだ。
ちょっと不思議な、その、姿に。
僕もかえるんだ……あるべき姿に。いるべき場所に。
遠のいていく現実感。今回のそれは、不快なものではなかった。むしろ、あたたかく心地よい。
自分が『粒子』になっていくのを感じる。
「じゃあ、ね」
朝焼けの光に溶け込むように、ヴァイスは消えた。
それは彼という『存在』が、この世界から完全に消えた瞬間だった。