生年は一五七四年から一五七七年、土佐出身。
家は先代より長曽我部家につかえる武家。半農半兵の小身の家柄、その次男(ないし三男)として生まれる。
仕官もかなわず農作業に没頭する暮らしだったが、その容貌がたまたま長曽我部家世嗣盛親にそっくりであったために平々凡々たる日々から解放される。
すなわち、盛親の第三の影武者として。時に、一盛十三歳。
盛親幼少時からの傅人子であった桑名一孝のもとでしばらく影武者としての修業を積み、一六〇〇年、同じく初陣の盛親とともに関ヶ原の戦場に立つ。
影Aは国許で何か起こった際のおさえとして土佐に残り、一盛と影Bが盛親に同行した。
関ヶ原の戦況及び結果については周知の通りだが、長曽我部勢は全く戦をしていない。
細かい事情についてはここでは語らないが、動けなかったのである。
しかしその撤退戦は熾烈を極めた。
勢いに乗った東軍の兵が群がりよってくるからである。一盛も奮戦したが多勢に無勢、味方は見る見る減っていく。そんな中、盛親が矢に当たって負傷、また影Bも絶命する。
一盛は負傷した盛親に代わって馬上にあったが、そこで飛んできた矢に貫かれそうになった刹那、太守盛親自ら盾となって一盛を護るという、影としてはどうなんだおまえというような出来事が起こる。
「盛親は馬上にあって無事。これも大切な影の役目ぞ(盛親)」
一盛はここで盛親に大きな負い目と部下への思いやりを感じ、今後より一層の忠誠を誓うこととなる。
戦後、盛親は土佐を追放される。
家康への赦しを請いに出頭した京から土佐へ戻ることすら許されず、その場で一介の牢人へとたたき落とされるという、非常に厳しい処分であった。
盛親は大岩祐夢(おおいわ、またはたいがんゆうむ)と名を変え、京の都で寺子屋の師匠としての蟄居を余儀なくされる。
この間、一盛は直属の上司でもあった一孝とともに藤堂家に召し抱えられている。
いつの日か戦場に長曽我部の旗が立つ日を夢見つつ。
しかし、歴史は無情である。
一六一四年、大坂夏の陣勃発。
藤堂家に仕官していた一盛は悲しいかな、盛親と敵対せざるを得なくなってしまったのであった。
さらに運命とは酷いもの。
翌一六一五年、夏の陣。
桑名一孝をはじめ旧長曽我部家臣を数多く抱える藤堂高虎勢が、偶然にも盛親の軍と相見えることとなってしまったのである。
旧知のもの同士が血を流しあう悲惨な戦場の中で、一孝は自殺するようにその人生を終える。
何とか命からがら逃げ延びた一盛。
傷をいやす彼の元に、一通の書状が届けられる。